東日本大震災

東日本大震災 発生7日後

地震発生から7日後、友人とふたりで車に救援物資を積んで、東京から東北に向かった。
ゆがんだ高速道路は、遊園地の乗り物のように上下した。仙台で降りると、信号が消えた道の両側に、津波で流されてひっくり返った車がどこまでも続いていた。鉄筋コンクリートのビルが、根っこから折れて倒れていた。もしも戦場に行ったら、こういう風景かもしれないと思った。

塩釜の老人ホームや病院へインスタント食品やカセットコンロのガスボンベなどを配ったあと、半壊してお湯の出ないホテルに1泊。翌朝、仙台で可能な限りの食品や日用品を買い集めて郊外へ向かった。都市から離れたところにこそ、救援の手が届かない人がいるだろうと思ったからだった。

リアス式の入り組んだ海岸線を行くと、高い場所にぽつぽつと煙が上がっているのが見えた。助かった人たちが集まって火を燃やしているのだ。3月の宮城はまだ寒く、山には雪が積もっていた。

避難して集まっている人々を見つけては、積荷の中から必要なものを選んでもらったのだが、「もっと困っている人がいるだろうから」と、受け取らない人も少なくなかった。
夕暮れ間近になり、明神という小さな集落に着いた。海からすぐ近くにあった約60世帯の住宅のうち、もっとも高い場所にあった4軒だけが津波に流されずにすんだ。その中の1軒は集落の葬儀場として使われている平屋のプレハブで、女性やお年寄り、そして子どもは残った住宅に泊まり、20人ほどの男はみんな葬儀場に布団を敷いて寝泊まりしていた。

持ってきた物資はほとんどなくなっていて、少しだけ残った野菜と電池を渡した。日が落ちると一段と寒くなり、焚き火の周りにみんなが腰を下ろした。壊れた海産物会社の冷凍庫から見つけてきたホタテ貝を焚き火で焼き、浜に流れ着いたウイスキーを回し飲みした。夜の運転は何が落ちているかわからないから泊まっていけという言葉に甘えて、勧められるままに何杯も飲んだ。

街に住む人たちは学校の体育館に集まっているみたいだけれど、こんなときに顔も知らない人と狭いところに集められて過ごすのは精神的にこたえる。ここは携帯もテレビも繋がらない辺鄙なところだけれど、子どもの頃からずっと一緒に暮らしてきた顔見知り同士でいられるのは心強いし、だから励まし合って強くいられると、彼らは言った。

夜中、葬儀場で寝ていると、ゴーッという山鳴りがして、大きな余震が何回も起きた。いつでも逃げられるようにと、靴を履いたまま寝ている人もいた。

翌朝、ちょっと散歩するかい、と誘われて海岸へ行く。拾った竿で釣りをしてみると、すぐにサケが掛かった。壊れた養魚場から逃げた魚が群れているのだ。

助けに行ったはずが、すっかり世話になってしまった明神の人たちに、いまいちばん欲しい物は何ですかと聞くと、「おにぎりや水は自衛隊が投下してくれる。それよりも、普段の暮らしで使う物が欲しい。サンダル、ハンドクリーム、髭剃り、歯ブラシ、タオル、下着、ラジオ、電池」
食べ物はどうですか? 「そうだなぁー、もう1週間も肉を食べてないなー」。

東京へ戻るとすぐに、実家が鹿児島で牧場を経営しているという友人に頼んで、ステーキ肉を10キロ送ってもらった。他の日用品もいっしょに車に積んで、翌週また明神へ向かった。

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